なぜ人は、他人の問題に夢中になるんだろう

他人の問題 夢中 ゴシップ 悪口 エッセイ

友人から、職場の人間関係の話を聞いた。

正直、最初に出てきた感想は、

「なにそれ、こわ」

だった。

人間関係のトラブルなんて、どこの職場にもあると思う。

誰かが誰かに腹を立てたり、言葉の受け取り方ですれ違ったり。

そこまでは分かる。

でも今回、不思議だったのはその先だった。

当事者の中では、もう何ヶ月も前に終わっていた話。

なのに周りの人たちが話し続けている。

人から人へ話が渡って、少しずつ大きくなって。

ついには数ヶ月経ってから、

「私はまだ納得できない」

と、当事者ではない人が再び話を掘り返した。

なんで?

もう終わった話なのに。

どうして、そんなに他人の問題にエネルギーを使えるんだろう。

話を聞きながら、ふと思った。

もしかしたら、その人にとってこの問題は、日常の中の「刺激」になっているんじゃないだろうか。

もちろん本人は、

「もっと揉めればいいのに」

なんて思っていないはず。

自分では問題を解決したいと思っているのかもしれない。

正しいことをしているつもりなのかもしれない。

でも人の揉め事って、ものすごく感情が動く。

「え、そんなことあったの?」

「それは腹立つ!」

「それでどうなったの?」

驚いたり、怒ったり、呆れたり。

いつもと変わらない毎日の中に、突然ドラマが始まる。

そして一度その熱が冷めても、

「あのときの話なんだけどさ」

と誰かが持ち出せば、また感情が動き始める。

もしかしたら人が求めているのは、「楽しいこと」だけじゃないのかもしれない。

ただ、心を動かしたい。

退屈じゃない何かが欲しい。

そう考えると、他人の問題ってとても手軽な刺激なんだと思う。

しかも、自分の人生を変えなくていい。

自分自身の問題に向き合うのは怖い。

仕事が嫌なら、この先どうするか考えなきゃいけない。

夫婦関係に不満があるなら、自分の気持ちと向き合わなきゃいけない。

毎日がつまらないなら、自分で何かを始めなきゃいけない。

自分の人生の問題は、最後には自分が動くしかない。

でも他人の問題なら、

「あの人がおかしい」

「私ならそんなことしない」

「普通こうするでしょ」

と言っていられる。

自分自身を変える必要はないのに、感情だけは大きく動く。

もしかしたら、

自分の人生から目を逸らしながら、退屈からも逃げられる。

他人の問題には、そんな側面もあるのかもしれない。

そして、もうひとつ思い出したことがある。

昔の私は、人と話すとき、愚痴や悪口を聞くことがとても多かった。

旦那の愚痴。

同僚の愚痴。

親の愚痴。

友達の愚痴。

私はそういう話が特別好きだったわけじゃない。

でも、それをやめると会話が続かなかった。

だから私も一緒になって愚痴を言った。

大人になると、こういうコミュニケーションが増えるんだな。

そんなものだと思っていた。

考えてみれば、愚痴や悪口って人と繋がるにはとても簡単だ。

「あの人ちょっと苦手」

と言えば、

「分かる!」

が返ってくる。

そこから、

「実は私もこんなことがあって」

と会話が続いていく。

共通の「嫌い」は、簡単に人を仲間にする。

一方で、

「私はこんなことがしたい」

「こんな未来にしたい」

「最近これが楽しくて仕方ない」

そんな話をするには、自分を出さなきゃいけない。

笑われるかもしれない。

否定されるかもしれない。

「そんなの無理だよ」と言われるかもしれない。

だから、誰かを嫌うことで繋がる方が簡単なのかもしれない。

でも私には、一人だけ昔から違う友人がいる。

その友人とは、子どもの頃から変わらない。

これやってみたい。

こんなこと思いついた。

いつかこうなりたい。

失敗した。

また違うこと思いついた。

そんな話を、何時間でもしてきた。

考えてみたら不思議だった。

同じ大人なのに、その友人といるときだけは、

「大人ってこんなもんだよね」

という会話にならない。

むしろ、

「じゃあ、どうしたらできる?」

になる。

誰かの人生を話題にしなくても、話したいことはいくらでもある。

自分たちの人生に、まだ話の続きがあるからだと思う。

そして最近、私はその感覚が少し分かるようになった。

毎日の中で、

「これやってみよう」

と思うことがある。

うまくいかなければ、

「じゃあ次はどうする?」

と考える。

昨日できなかったことが今日は少しできたり、

思いついたことを形にしてみたり、

また新しい目標ができたりする。

別に毎日、大きな出来事が起きているわけじゃない。

むしろ外から見れば、普通の毎日だと思う。

それでも退屈しない。

自分の人生に、ちゃんと続きがあるから。

だから誰かのゴシップを聞いて、

「え、なにそれ!」

と盛り上がることはあっても、その話を何ヶ月も抱えてはいられない。

次の日には、考えたいことがある。

やってみたいことがある。

失敗したことの続きを考えたい。

自分の人生の方が忙しい。

そこでやっと気づいた。

充実している人は、他人に興味がないわけじゃない。

他人の人生に、長居しないんだ。

そしてこれは、悪口を言う人を責めたい話でもない。

私だって昔は、愚痴を共通言語にして人と繋がっていた。

「大人になれば、こういうものなんだ」と思っていた。

でも、違った。

何を話すかは、自分で選べる。

誰と繋がるかも、自分で選べる。

そして何より、

自分の心を何で動かすかも、自分で選べる。

誰かの失敗。

誰かの不倫。

誰かの喧嘩。

誰かへの怒り。

確かに、それらは強い刺激をくれる。

でも、その刺激がなくなったら、また退屈になる。

だったら私は、

「次、何やってみよう」

で心を動かしていたい。

夢中になれるものなんて、最初から見つかっている必要はない。

小さくても、

「これちょっと気になる」

「やってみたい」

「昨日よりこうしてみよう」

それだけで、自分の人生に少しずつ物語が生まれていく。

人の人生の続きを追いかけなくても、

自分の人生に、

「それで、次どうなるんだろう」

と思えるようになる。

たぶん私は、そっちの刺激の方が好きなんだと思う。

誰かの問題で盛り上がるより、

自分たちのこれからについて話していたい。

「あの人、今どうなったんだろうね」

より、

「私たち、次は何しようか」

と言っていたい。

子どもの頃って、案外そうだった気がする。

明日何して遊ぶ?

大人になったら何になりたい?

次は何作る?

いつから私たちは、

「これから何しよう」

より、

「あの人どう思う?」

を話す時間の方が増えてしまったんだろう。

大人になったからって、

他人の人生を眺めながら生きなくてもいい。

自分の人生に戻って、

また続きを作ればいい。

きっと人生って、

私たちが思っているより、

まだまだ遊べる。

🌙 Lunaのことば

他人の人生が気になって仕方ないときは、
自分の人生が止まっていないか、少しだけ振り返ってみる。

誰かの物語の続きを追いかけるより、
「私は次、何しよう」

そう考えられる毎日の方が、
きっとずっと面白い。

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